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第四節 口碑・傳説>
一、櫻葉ノ里
西磐井郡、古昔、吾勝郷萩荘櫻葉ノ里ト称セシト。今、三関ヲ桜野郷ト伝唱シ又桜町ト称スル一字アルハ之レガ故ナルベシ。
西行法師
根芹つむ澤の氷のひまたえて
春めきわたる櫻葉の里
参考
関元龍編関邑畧誌ニ、磐井郡西磐井郷古称吾勝郷萩荘櫻葉ノ里一云鈎庄三関一ニ桜野庄トアリ
一、尼ヶ森
古昔、此所ニ比丘尼寺在リ。西行法師ノ止宿シタル所ナリト。
一、巖 洞 在狐禅寺
里人「はくちあな」ト称ス。北上川ノ南ニ在リ。一ニ志賀山ト号ス。巖洞長一間半横一間位。
伝云北條時頼入道遇雨其ノ晴ルゝヲ待テシ所ナリト。
一、暗住澤 在三関
白崎城主千葉内膳平胤妙、天正十八年歿落ノ際、敵ノタメニ攻メラレテ潜伏ノ処ナリ。
維新前迄老樹鬱蒼晝猶暗ク、眞ニ当時ヲ追懐スル足レリト云フ。
一、逢 澤 在三関
白崎城主千葉内膳、天正年中歿落ノ際、敵ノ軍ニ遇ヘシ処ヲ以テ、地名ニ名ツケタリト、今ハ「小澤」ト書ス。
又一説ニ「茡澤」ナリト云フ。
一、茡 澤 在三関
前記小澤(又ハ逢澤ト云フ)ヲ称シテ茡澤ナリト云フハ、一関機織山ニ因メル細布長根ノ続キナレバ茡澤ナリト。
又、其ノ近傍ニ菅澤ト称スル地モアレバ或ハ然ルカ。
一、舞臺趾 在狐禅寺
藤原秀衡、猿楽ヲ遊覧セシ地ニシテ、舞臺ノアリシ跡ナリトゾ。今、地名ナリテ「舞臺」ト呼ブ。
一、矢場ノ趾 在三関
白崎城ノ峯続キニシテ城主(千葉)内膳及家臣等ノ常ニ弓射的ヲ試ミタル所ナリト云フ。
今ソノ矢場ナリシト云フ所ニ数百年モ経タモノト臆ハルゝ老杉壱株アリ。
一、満願寺跡 在真柴
往古、一関満願寺ハ、其ノ初メ柳沢(現真柴柳沢鶴巻ノ地)ニ在リシト云フ。
今、鶴巻ノ地ヲ称シテ「満願寺」ト云フ者多シ。然レドモ何レノ地点ナリシヤ其跡明カナラズ。
一、平泉藤原氏ノ牧場 在真柴大字牧澤
元牧沢村ノ地・藤原氏ノ牧場アリシ所ナリト云フ。牧沢ノ地名之レニ因レルナリト云フ。
一、大 堰 在三関
往古、三関ノ域ニ在リ猪岡堰ノ分流ニシテ稲田潅漑ノ用ニ供シタリシガ、之レノミニテハ到底足ラザルヲ以テ、天和年中、田村徳源公、小沢三ヶ所ニ堤ヲ築キ溜池ヲ造リ潅漑ノ用ニ供シタリ。故ニ以後、此ノ堰ハ廢セラレタリト云フ。
一、玄行塚 在三関
葉山薬師ノ往古仁分澤ニ仁分和尚玄行ト云ヘルモノ住居シ、其ノ節、経文ヲ埋メタル塚ナリト称ス。年月不詳。
一、飯前森 在狐禅寺
此ノ森、本村狐禅寺山田ト弥栄村トノ境ニアリ。古昔ヨリ二村其ノ所有ヲ争ヒ容易ニ決セザリシガ、□□□ノ頃、山田ニ大森倉人(現千葉長吉ノ先代)ナル人アリ其ノ森ノ狐禅寺所有ナルヲ証シ、以テ決スベク、早朝、弥栄村村役人宅ニ至リ談判シテ、久シク解ケザリシ所有争ヒヲ朝飯前ニ解決シ、狐禅寺所有トシテ帰リタリ。
故ニ「飯前森」ト称ス。
一、九郎森 在狐禅寺
九郎判官源義経公ノ陣セシ所故ニ地名トスト。其ノ何時何ガ故ニ此所ニ来ラレシヤヲ知ル由無シ。
一、導士塚 在滝沢二又沢
古昔、至心導士ナル者、此処ニ至リ断食往生セント、穀食一切ヲ絶チ、瞑目読経行ヲ修ス。行人ノ施与スル柿ヲ食シ露命ヲ繋グ。死期迫ルニ及ビ、金沢村穴ノ沢洞窟ニ入リ(此ノ洞窟内部ハ八疂敷位ノ広サアリ)遂ニ往生ス。
導士塚ト称スルハ之レヲ埋メタルモノナリト云フ。年代不詳
今、塚ニ生育シアル当時植エタリト云フ老杉ハ、周リ八尺余ニ及ベルヲ見レバ、七八百年モ以前ナランカ。
大正三年ノ頃ヨリ、滝沢泥畑ノ人石川新作此ノ塚ヲ拝セバ霊験著シト唱ヘ初メテヨリ、遠近老幼男女ノ参拝スル者多ク、大正四年九月、金沢村高橋□□、此所ニ石宮ヲ建テ、以テ祀ル。
此ノ塚ノ下ノ沢ヲ「柿木沢」ト称シ、柿ノ実生育シテ大木トナリ繁茂シタル故ナリト。今、其ノ根アリ。又、若者共試ニ塚ノ一隅ヲ掘リタルニ、土偶ノ出デタルヲ以テ見レバ何等カ由緒アランカ。
一、馬頭観世音供養石 在滝沢
此ノ観世音供養石ハ瀧澤字道目木ニ在リ。石ノ傍ナル古松ハ、廻リ一丈余ノ大木ナリ。此ノ供養石ニツキ、里俗ノ伝フル所ニ依レバ、古来、道目木地方ハ産業トシテ良馬ヲ産スルコト少カラズ。貞享ノ頃、稀代ノ俊(駿)馬ヲ産シタルヲ以テ、藩公田村公ニ献ゼシニ、田村公御覧アリテ之レ実ニ稀代ノ俊馬ナリ、宗家伊達家ニ献上スベシト、直チニ公ニ献上セリ。
然ルニ、伊達公ニ於テモ又、カゝル俊馬私スベキニアラズトテ、朝廷ニ献納シ嘉納アリテ御乗馬トナリ、之レガタメニ其ノ母馬ノ飼料トシテ年々馬糧大豆ノ御下附アリタリ。此ノ母馬斃死セルヲ、此処ニ埋メ馬頭観世音ヲ祀リシナリト云フ。
一、切支丹塚 在滝沢
里俗、切支丹塚ト称シ居ルモノ、滝沢字松田原ニ一箇(廻リ二丈五尺余)、同字中曽根ニ参箇(廻リ二丈余)アリ。
年代由来共ニ不詳。
一、石法華 在滝沢
本村滝沢地内ノ一字名ナリ。此処ニ廻リ二丈余ノ塚アリテ、古ハ石仏建テラレタリ。傍ラニ廻リ一丈五尺ニ垂ンナントスル笠松ノ古木生育シアリシガ、五十余年前、風害ノタメニ倒ル。石仏ハ何時ノ頃破損セシカ細カニ砕ケテ其ノ文字等ハ見ル能ハズ。何セ「石法華」ノ地名、之レヨリ出タルモノナレバ。何等カ由緒アラン。
一、まんかい上人塚 在滝沢
本村滝沢「ボクネ山」ト称スル雑木立山中ニ在リ。
伝云、古昔、此処ニ一上人来タリ業ヲ修ス。一切ノ肉食穀食ヲ断チ百色ノ菓子ヲ食シテ遂ニ寂ス。此処ニ埋ムト。
「まんかい上人」ト称スルハ何人ナルカ。ヨモヤ満慶上人ニハアラザルベシ。
一、蝦夷塚 在真柴字東沢
八雲神社ヲ距ル南方四町余ノ地ニ里俗・蝦夷塚ト称スル盛塚七個アリ。大ナルハ高サ□□尺周リ□□尺、小ナルハ高サ□□尺周リ□□尺アリ。記録其ノ他ノ資料存スル無ク、考證スルニ故ナシ。伝フル所ニヨレバ、古昔、此所ニ住スル豪族、此ノ地ヲ去ルニ臨ミ家財一切ヲ埋メタルト云フ。
嘗テ好古家・佐藤久吉氏(一関町ノ人)及一関中学校教諭・野田千代治氏、愈々現場ニ臨ミ調査ノ結果、屡々現場ニ臨ミ調査ノ結果、多分、古墳ナルベシト推定セラレタルモ、之レ又、何等確実ナル考証資料ヲ得タルニアラズ。
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底本:「復刻 眞瀧村誌」
2003(平成15)年6月10日発行
発行者 眞瀧村誌復刻刊行委員会
代表 蜂谷艸平
2004年3月10日作成