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第二節 本村ノ金融機関・相互扶助
無 盡 講
本村唯一ノ金融機関、無盡講(頼母子講)ナリトス。其ノ何レノ時代ヨリ行ハレタルカハ詳ナラズ。最初ハ貧困者救済ノタメ組織セラレタルガ如シ。古昔、人情厚ク隣保相和シ相助ケ、破産等ノ厄ナカラシメタルモノニシテ、若シ一旦、負債等ノタメ到底破産ヲ免レザルニ際シテハ、近親隣保相諮リテ、此ニ無盡講ヲ組織シ、以テ救済ノ実ヲ挙ゲタルモノナリトス。元ヨリ人情道徳ノ上ヨリ出タルモノナレバ、敢テ利益ヲ主トシタルモノニアラズ。其ノ割合ノ損益ハ、勿論、規約等モ然程意ニ介セズ。唯々救済ノ実ヲ挙グルヲ目的トシ、人情道徳ヲ以テ之ヲ行ヒ来リシナリ。
然ルニ、其後ニ至リ、人情稍々軽薄ニ趨リ、利益勘定ヲノミ之レ事トシ、規約伝々殿ヲ損ニシ、不拭ノ者等出ヅルアリ。又一方、古来、醇朴ナル習慣ニ依リ簡単ナル規約ヲ以テ組織セラルル無盡講ヲ利用シ、利益ヲ得ントシテ、組織スル者等出ズルニ及ビ、遂ニ訴訟沙汰頻々トシテ提起セラレ、其ノ弊害少カラザルニ至リシハ、慨嘆ノ至リナリ。
此ノ如キハ、都会ニ近キ程多クシテ、質朴ニシテ人情厚キ部落ニハ、未ダ曽テ之ヲ見ズ。サレド目前ニ無盡ノ結果宜シカラザル例多キヲ見ルヲ以テ、今日ニ於テハ、救済ノタメ組織スルモ、加入者ノ警戒、厳ニ且又利益計算ヲナス者多クナリテ、参割乃至四割ノ割戻シヲナシ、又ハ肴費其ノ他ニ至ルマデ其ノ組織発起人ノ身ノ上ヲ顧リミザル者多イタメニ、從前ノ如ク貧困者救済ノ唯一ノ機関タル実ヲ挙ゲ得ザルニ至レリ。
從前ハ、講員ハ其ノ年々籤ヲ引キ當籤者ヲ定メタルモノナリシガ、後ニハ此ノ方法ハ未ダ取リ付ケザル者ノ割合モ悪シク、又此レヲ取リ付ケントスル者モ僥倖ニアラザレバ、取リ付テ得ザル不便アリトテ、糴リ取リ[注
1]ノ法ヲ立ツル風行ハル。今日ニ至ルマデ多クハ糴取法行ハル。
本村ニ於テ行ハル無盡ハ、籾、金ノ二種最モ多シ。籾無盡ハ二俵三俵五俵掛ケ普通ニシテ、毎年秋季ニ於テ一回之レヲ行フ。金無盡ハ五円掛普通ニシテ、年二回以上ニ及ブモノ稀ナリトス。
外ニ米無盡萱無盡アリ。以上無盡講ノ年限ハ十ヶ年ヲ一期トスルモノ大部ヲ占ム。
從前唯一ノ金融機関タリシ頼母子講モ、人情道徳ヨリモ唯々法網ヲ免レントスル者多ク、勢コレワ、其ノ組織モ又、以前ノ如ク其ノ弊害少ナカラザルヲ以テ、政府ハ大正四年六月二十一日法律第二十四号ヲ以テ、無盡ニ関スル法律ヲ発布スルニ至レリ。サレバ、此ノ法律ニ依リ組織セバ完全ナルモノニテ、從前ノ如ク農村唯一ノ金融機関タルヲ得ベシ。(岩手縣ニ於テハ大正二年十一月二十五日県令第三九号ヲ以テ無盡講取締規則発布セリ)
無盡講、此ノ如キ状勢ニ至レルヲ以テ、心アル者ハコレニ換フベキ金融機関ヲ組織スルニ至レリ。即チ報徳社ノ如キ貯金組合、之レナリトス。
サレド、組織、日尚浅ク、資金充分ナラズ。到底金融機関トシテ充分ナル運用ヲナス能ハザル現時ノ事実ナリ。然レドモ其ノ方法宜シキヲ得、資金充実ノ暁ニハ、從前ノ頼母子講ニ比シ、反テ良好ナル成績ヲ見ルヲ得ベシ。本村ニハ産業組合ノ設ケアリ、其レゾレ活動シ居ルモ、村民未ダ其ノ精神ノアルトコロヲ充分ニ解セズ、之レヲ利用スルモノ少ク、從テ予期ノ成績ヲ挙グルコト能ハズ。サレド、今後ハカカル組合ノ唯一ノ機関トナルヤ論ナシ。
眞柴積善共栄会 報徳社
本会ノ創立ハ明治□□年ニアリ。当時、鉄道開通ノ結果、眞柴字吉ヶ沢ニ約弐反歩ノ旧川敷地荒廃ニナリ居リタルヲ以テ、斉藤栄太夫、熊谷豊治、佐々木熊吉等相諮リ、之レヲ開墾シテ田トナシ、組内財産ヲ造成スベク、共同耕作地トセントシ、之ヲ拂下ゲタリ。然ルニ、隣地主ノ懇請ニヨリ、之レヲ籾弐拾石ニテ譲与シ、其ノ得タル籾石ハ、直チニ組内財産トシ、貸付増殖ノ法ヲ立テタリ。
然ルニ明治三十七年ニ至リ、此ノ籾石参拾余石ニ達シタルヲ以テ、組内協議ノ上、之レヲ分配配当セントノ議起リ、今ヤ実行セラレントスルニ当リ、阿部善治外二、三有志諮リ、之レヲ永遠ニ蓄積シ、基本財産トシテ一ノ会ヲ組織シ、以テ組内一般治済ノ法ヲ立テントシ、相結束シテ総会ニ臨ミ、意見ヲ述ベ衆説ヲ屈服セシメテ、此ニ目的通リ此ノ籾石ヲ基本財産トシテ一ノ団体ヲ組織シ「積善共栄会」ト名ヅケタリ。
御即位記念滝沢共立貯金会
本村滝沢字泥畑部落ニ於テハ、部落民他債ノタメ内々裡ニ於テ之レガ償却ニ困難シ居ルモノ少ナカラザルヲ見、今日ニ於テ之レガ償却ノ良法ヲ講ゼザレバ、将来実ニ憂慮ニ堪エザルモノアルベキヲ察シ、大正四年、御即位記念トシテ共立貯金会ヲ組織シタリ。現在会員数□□名、壱百六拾五株ニシテ、積立金現在総計金壱百弐拾四円壱拾九銭ナリトス。
会長ハ阿部寅治ナリ。
牧沢大正報徳会
明治三十七年、小野寺寿治郎等相諮リ、一口ニ付毎年籾壱石宛ヲ蓄積シ、之レヲ入用ノ者ニ貸付シ、増殖ヲ図リ、拾ヶ年ヲ一期トシ配当スルコトトシ、拾弐人ノ会員ヲ得テ組織シ、貯蓄会ト称シタリ。
大正二年、本会ハ滞リナク一期間ヲ過セシヲ以テ、籾石ヲ分配シタリ。然ルニ其ノ成績良好ナリシヲ以テ、之ヲ永遠ニ維持セントスル者多ク、且ツ又、新ニ加入ヲ申込ム者モアリタルヲ以テ、此ニ組織ヲ変更シテ一口ノ積籾拾石トシ、一時又ハ数年ニ積入ルコトトシ、存立期間ハ永遠ニシテ別ニ期間ヲ付セズ。貸出方法等モ改正シ、大正報徳会ト称シ、定款ヲ議定シ、大正二年秋季ヨリ、愈々事業ニ施行セリ。
現在会員数拾五人、其積込籾壱百余石ナリ。役員ハ専務取締役小野寺房治郎、監事小野寺弥蔵ナリ。
眞柴西沢貯蓄会
本会ハ、明治□□年頃、眞柴西沢部落有志相諮リテ組織セルモノニシテ、会員ハ毎年秋季ニ於テ、籾五斗入壱俵以上積立テ、其ノ籾石ハ、第一ニ会員ニシテ必要ナルモノニ低利貸付ヲナスモノトス。
貸出シ時季ハ敢テ一定セズト雖モ、年度末決算ノ場合、養蚕時季・田植時季等ニ於テナスヲ通例トス。猶残余アルトキハ、役員協議ノ上、適當ナル方法ノ下ニ、会員外ト雖モ貸出スルコトアルベシ。現在会員数ハ□□名ニシテ、積立籾□□石ヲ有ス。
会長ハ千葉胤松ナリ。
三関貯蓄講
本貯蓄講ハ、明治十年頃ノ創立ニシテ、當時郡備荒籾ヲ交附セラレタルモノト別途ニ、外ニ毎年籾五升以上ヲ據出蓄積シ、之レガ利殖ノ方法ヲ立テ来リタルモノトス。
現在、講有財産ハ、籾約六十石、金約三百円、土地(田・畑)二反五畝歩ヲ有ス。外ニ備荒籾石約参拾石アリテ、之又、本講管スル所ナリ。
平素ハ、希望者年壱割内外ノ利息ニテ貸付ケ増殖ヲ図リ居レリ。而シテ、使用ハ神社佛閣ノ修繕治済救済等決議ニヨリ支出スルモノトス。管理主任ハ菊池亀治郎ナリ。
備荒籾
藩制中、田村藩ニ於テハ、夙ニ備荒ノ蓄積方法ヲ講シ、毎年納穀中ヨリ備荒トシテ幾分ヅツノ籾石ヲ蓄積シ来リタリ。之レヲ貯ヘ置ク倉庫ハ即チ「御郡倉」ト称セシモノニテ、一関ニハ台町御手廻リ及広小路(今ノ税務署敷地)ノ二箇所ニ設置セラレアリシナリ。平年ニ於テハ之レヲ貸出シ、利殖ノ方法ヲ講ジタリ。廃藩後、該備荒籾ヲ西磐井郡各村ニ各々戸数ニ応ジ配当配分セラレタリ。之レ即チ各村備荒籾ノ土台ナリトス。(此ノ分配ヲ受クル前ニ於テ既ニ申合セニ依リ備荒蓄積ノ方法ヲ講ジ、実施シ居リタル村モアルベシト雖モ、ソハ達識士ノ掌ル村ニシテ一般トハ云イ難シ。寧ニ皆無ト云フモ妨ゲナカルベシ)
本村狐禅寺(旧狐禅寺村)ニ於テハ、肝入・小野寺良作、備荒籾蓄積ノ必要ヲ村民ニ解キ、既ニ安政二年ヨリ之レガ実施ノ法ヲ立ツ。即チ、村民ヲ貧富ニ依リ差等ヲ立テ、四等ニ分チ、一等ハ毎年籾一斗、二等七升、三等五升、四等参升ヅツトシ、之レニヨリ年々ノ蓄積高五石九斗参升ナリトス。
安政四年ニハ備荒倉ヲ設置シタリ。同年、字寺浦小川転遷荒蕪地トナリタルヲ村民共同開墾ヲナシ、之レヲ耕作シ得タル純益ヲ年々前記備荒籾ト同時ニ蓄積スルコトトセリ。サレバ慶応三年末ニハ、其ノ蓄積石数六拾石壱斗八升ニ達セリ。爾来、貸附法ヲ規定シ利殖ヲ計リ、又、荒蕪地開墾ヨリ得タル利益ハ、年々之レヲ蓄積シ来レリ。
其ノ明治二十二年三月三十日町村制実施ニ先チ決議シタルモノヲ見ルニ、左ノ如シ。
狐禅寺村備荒籾及備荒倉保存、之カ使用権利ハ、從前ノノ慣行ニ據ルモノトス。
現在備荒籾百六十五石五升六合
明治二十二年三月三十日
狐禅寺村会議員
八 木 廉 平
小野寺 新太郎
小野寺 揆 一
真柴村備荒籾保存之カ使用権利ハ從前ノ慣行ニ據ルモノトス。
現右備荒籾壱拾石八斗三升六合六勺 鬼死骸分
現右備荒籾壱拾六石六斗五升八合二勺 牧沢分
明治二十二年三月三十日
真柴村会議員
佐々木 熊 吉
千 葉 登志蔵
三 上 俊治郎
渡 辺 三 好
扇 藤 栄太夫
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注1:競りを糶糴(ちょうてき)といいそれぞれ字の源意は糶は賣米、糴は買米の意味。糴取(せどり)も競りの意味。
底本:「復刻 眞瀧村誌」
2003(平成15)年6月10日発行
発行者 眞瀧村誌復刻刊行委員会
代表 蜂谷艸平
2004年3月10日作成