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 第二節 明治天皇御小休所

 明治天皇御野立ノ所
 真柴字的場鹿嶋神社附近ニ在リ。旧国道ノ側ノ畑地ニシテ、千葉長之進ノ所有地ナリ。
 明治九年、奥羽御巡幸ノ際及明治十四年同御巡幸ノ際、共ニ御野立所ニ選定アリ。御小休ミアラセ給ヘル所ナリ。
 然ルニ此地、現在ハ畑地トナリ居ルヲ概シ、村民ハ永ク天皇ノ御偉徳ヲ仰グベク且ハ将来当地ノ事績ヲ永久ニ保存セシメンガタメ記念碑ヲ建設スベク目下計画中ナリ。(御野立当時ノ畧図参照)
 十符ノ菅薦ノ節ノ一節ニ曰ハク。(同書ハ当時ノ従者儒近藤芳樹ノ(作)ナリ)
 明治九年七月三日、雨ふる 七時ばかりに築館をたつ 磐井まで坂路のみなればとて御輿に召させ給へり。(中略)
 真柴村の的場といふ所に御いこい所を構して駒ヶ嶽より雪を運びもて来て奉れり。供奉の人々も皆口に含みてあつさをわすれけり。午後一時に磐井につきぬ、云々。
 奥羽御巡幸明細日誌ニ曰ハク、
 九年七月三日は雨天なるに、坂道も多かる故、御板輿に召させられ、午前七時築館駅を御発輿あらせらる。また駅を出づれば(有壁駅)また大なる坂あり この坂を北に下りまた登りたる山上は、陸前と陸中との国堺にして、以北は岩手縣の管轄なれば縣官此の所に待ち受け奉り、これより御先導となれり また松並木の間々に巡査が一、二人づゝ立並び居りたり。
 道路は蠺豆程の砂利を敷きたれば、今日の雨にも車の歯はねばらずしてよく運転せり。また爰に十萬坂と称する険しき坂ありしを、更に山の下へ道をつけ替へて平垣をなしたれば、この後とても大に便利を得べきなり。其の次ぎの坂を下れば、平垣にて真柴村と云ふ所に至れり。当所の的場と云ふ所に御野立所あり。これは爰より御輦に召し替へさせ玉ふための御小休所に設けたるよし この所にて駒ヶ嶽より取り来れる雪を献上する 夫より拾丁計りにして一関に至れり、云々。
当御巡幸の際の従者は左の如し。
  右大臣岩倉公  内閣顧問木戸公  徳大寺宮内卿
  土方大史  杉宮内少輔  東久世侍従長
  香川宮内大亟  児玉宮内権大亟  堤宮内権大亟
  岩佐侍医  米田侍従番長  高崎侍従番長 金井権少史
 外に侍従には堀川・高辻・富小路・東圓・北條・片岡・太田・山口・仙石君 皇學掛の近藤芳樹君にて、大久保内務卿・櫻井宮内少亟の両君は御道調べのため御先発 随行の官員には宮内権大亟北代君・同権少亟榛名君・駅逓寮七等出仕五島君・判任官にて、内務省より二名、駅逓寮より二名、土木寮より二名なり。
 宮内省よりは御用掛七人、庶務課二人、出納課二人、内膳課十四人、内匠課一人、職工六人、調度課三人、夫卒七人、内庭課十四人、仕丁其の他にて十八人、剣・玉璽辛椻舁とも御厩課八人、飼丁其他にて三十三人、合計百三十六人、外に御召馬車二輌、馬二十匹なり。

       (奥羽御巡幸明細日誌による)


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底本:「復刻 眞瀧村誌」
 2003(平成15)年6月10日発行
発行者 眞瀧村誌復刻刊行委員会
代表 蜂谷艸平
 2004年3月10日作成