平安時代から平泉誕生
 延暦8年(789)の巣伏の戦いは朝廷軍の大敗に終わりましたが、13年後の延暦21年、坂上田村麻呂の遠征により蝦夷勢力は破れ、アテルイは降伏します。坂上田村麻呂は胆沢に農業栽培試験場をかねた胆沢城を造るに及び、漸く地元民との交流が可能となりました。兵士とその家族のうち 「希ふ者を永く柵の戸に置く」 と共に諸国から4千人の農民を移住させ屯田兵とし、開拓と農耕に当たらせました。

 北上川沿岸、磐井川、久保川、金流川、砂鉄川、千厩川、黄海川等の下流沿岸の適地が拓かれて逐年面積は増加しました。

 磐井の地名の出典は、承平年間(938)に源順(みなもとのしたごう)の書いた 「和名類聚抄」 が初見で 「伊波井」 とありまして、伊波井郡に7郷あり 「マスザワ イハイ ヤマダ ナカムラ ハセツカベ アマルベ」 となっています。このうち当改良区は、磐井郷(一関、山目、中里、平泉、真滝)と山田郷(狐禅寺、舞川、長部、田河津、母体)と仲村郷(流、栗原、石越)に包含されます。

 仲村郷は永承6年(1051)の「前九年の役」を記録した「陸奥話記」に出てきます。 前九年の役(1051〜1062)は、奥六郡を支配する安倍頼時が朝廷と対立し、源頼義・義家父子が率いる討伐軍との間で起きた戦いです。その中の一関市萩荘の小松柵の戦いの項に「磐井郡仲村の地に入る。陣を去ること四十余里。耕作の田畑と民戸はすこぶるゆたかなり。即ち兵士三千余名を遣わし、稲禾等を刈るを令し軍量に給せんとす。」とあります。
 この戦いで安倍頼時は戦死し、跡を継いだ息子の安部貞任は討伐軍に対し、終始優勢な戦闘を続けますが、出羽山北の豪族である清原武則が大軍を率いて参戦したことにより崩れ、阿部氏は滅亡します。清原武則は、この戦功で朝廷から奥六郡を与えられます。

 永保3年(1083)清原氏の頭領である清原真衡と、かねてから不仲であった清原清衡と清原家衡の間に内紛が起こります。この紛争に源義家が介入し、清原真衡の死で一旦は収まりますが、今度は清原清衡と清原家衡との間に紛争が起こります。そして再び源義家が介入し、清原清衡の側について清原家衡を討ちます。この一連の紛争を「後三年の役」といいます。
 寛治元年(1087)清原氏の所領である奥六郡支配を継承することになった清原清衡は、姓を実父の「藤原」に戻し、奥州藤原氏の祖となり、奥州藤原四代百年の栄華が始まります。
 

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更新履歴 新規作成日:2004/04/01
最終更新日:2012/09/24
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