伊達氏支配と田村氏移封
 江戸幕府が開幕されて伊達政宗が仙台藩初代藩主になり、一関は仙台藩領となりました。慶長9年(1604)、伊達政宗は伊達政景(留守政景)を一関に移封。その後、元和2年(1616)からは仙台藩蔵入地(藩直轄地)となり、寛永18年(1641)より、伊達政宗の10男で仙台藩二代目藩主・伊達忠宗の異母弟である伊達宗勝が3万石の分地をうけ、一関藩が誕生しました。
 万治3年(1660)7月、仙台藩三代目藩主・伊達綱宗の隠居以降、二歳で四代目藩主となった伊達綱村の後見人として仙台藩政の主導権を得た伊達宗勝は、次第に専横の度合いを強め、寛文11年(1671)の伊達騒動(寛文騒動)にて失脚し、宗勝家は断絶。一関藩は改易され、領地は仙台藩に収公されました。
 延宝9年(1681)5月、幕府の命にて仙台藩の支藩である岩沼藩より田村建顕が転封され、再び一関藩は立藩します。田村建顕は外様大名ながら元禄4年に譜代格となり江戸城奥詰に任じられ、翌5年には奏者番に任じられ、さらに翌6年には城主格になり、徳川綱吉の側近として仕えました。
 明治元年(1868)の戊辰戦争
では本藩の仙台藩に従い「奥羽越列藩同盟」に加盟し、同盟を脱退した秋田藩への攻撃を指示され、須川岳(栗駒山)を越えて秋田領小安、増田、 南楢岡へ侵攻し、刈和野で庄内藩兵と共に秋田・薩摩藩兵と激戦を交えましたが、後に仙台藩と共に降伏し、藩主の田村邦栄は三千石削減の上に家督を弟の田村崇顕に譲り隠居する事を余儀なくされました。
 明治2年(1869)、版籍奉還によって領地領民を政府に返還し、田村崇顕は新たに知藩事に任命されて一関藩知事となりました。その後、明治4年(1871)の廃藩置県によって一関藩は一関県となり、県名は同年12月に水沢県となり、さらに明治8年(1875)には磐井県と変更され、翌明治9年、磐井県は岩手県に編入されました。
 
 

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更新履歴 新規作成日:2004/04/01
最終更新日:2012/09/24
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